國體護持(続憲法考) 南出喜久治

- 作者: 渡部昇一,南出喜久治
- 出版社/メーカー: ビジネス社
- 発売日: 2007/04/19
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概念の整理
これまで、占領憲法の効力論として、占領憲法が帝國憲法の改正としては絶対無効であると見解(無効説)の根拠を述べてきたが、ここでもう一度整理し、さらに掘り下げて考へてみる。
法律学は、権利と義務、物権と債権、債権と債務などのやうに、相容れない対立する概念を構築し(峻別の法理)、それをすべての法律事象に当てはめて分類し分析する論理的な学問である。もちろん、ここで議論される、「効力」の有無としての「有効」と「無効」といふ概念も法律学の中心的な概念の一つであることはいふまでもない。
亡尾高朝雄博士は云ふ。「法の妥当的な規範意識内容が、事実の上に実効的に適用されうるといふ『可能性』chanceこそ、法の効力と名づけられるべきものの本質である」と。つまり、一般に「効力」といふものには二つの要素があり、一つは法の「妥当性」、もう一つは「実効性」であり、この双方を満たすのが「有効」、そして、そのいづれかを満たさず又はいづれも満たさないものを「無効」と定義するのである。
従つて、占領憲法が有効か無効かといふ議論(効力論争)は、占領憲法に最高規範としての「憲法」としての「妥当性」があるか否かといふ側面と、さらに、占領憲法はこの「憲法」としての「実効性」を保ち続けてゐるか否かといふ側面とに分解できる。
ところが、これまでの無効説(旧無効説)は、専ら「妥当性」の側面のみで主張されてきた。しかし、ここでいふ無効説(新無効説)とは、「実効性」の側面においてもそれを否定する主張であることが留意されるべきであつて、本章においては、立法行為の有効と無効の概念に関連した概念を明らかにしつつ、この「妥当性」と「実効性」の二つの側面から無効説と有効説の種類と構造を鳥瞰し、有効説の誤謬を背理法などによつて証明することを試みることとする。
不成立、無効、取消
「無効」とは、一旦は外形的(外観的)に成立した(認識し得た)立法行為が、その効力要件(有効要件)を欠くために、当初に意図された法的効果が発生しないことに確定することを言ふ。換言すれば、外形的にはその立法行為(占領憲法)は存在するが、それが所与の内容と異なり、または所定の方式や制限に反し、あるいは内容において保護に値しないものであるが故に、初めからその効力が認められないことである。外形が整へば「成立」するが、その効力が認められないことから、外形すら整つてゐない「不成立」とは異なる。占領憲法が無効であるといふ意味は、帝國憲法第73条の形式的手続を整へて「成立」したとされてゐるものの、「無効」であるとするのであつて、決して「不成立」といふ意味ではない。
民法第96条には「詐欺又ハ強迫ニ因ル意思表示ハ之を取消スコトヲ得」とあり、これは詐欺又は強迫による意思表示であつても一応は「有効(不確定的な有効)」であつて、それを「取消」の意思表示をなすことによつて、行為時に遡つて確定的に無効とするのである。これが「取消しうべき行為」といふ概念である。
これは、英米法における「不当威圧」undue influenceの法理に由来するもので、支配的地位に立つ者がその事実上の勢力を利用して、服従的地位に立つ者の自由な判断の行使を妨げ、後者に不利益な処分または契約をなさしめた場合には、自由恢復の後において、その処分なり契約を取消して無効を主張することができるとされてゐるものである。そして、特に、その詐欺または強迫の程度が著しく自由意思によらない強制下でなされたときは、意思の欠缺となり、その瑕疵の著しさ故に、取消の意思表示やその他の観念の表明を必要とせずに当初から「無効」と評価される。これは、私法理論であるが、およそ社会関係に遍く適用される法理であつて、公法にも適用があることは疑ひはない。
ところで、「取消しうべき行為」は、「瑕疵ある意思表示」であり、後に「取消」によつて遡及的に確定的に無効とすることができるし、あるいは逆に、後述するやうに「追認」することによつて確定的に有効とすることもできる。これは、およそ効力評価において、無効か有効かといふ峻別の法理からして例外に属する範疇である。このやうな概念が定立されるのは、当事者の利益衡量を精緻にすることを目的とする私法固有の事情によるものであつて、私法の中でも団体法において、また、公法においては、法的安定性を重視するため、有効か無効かの二分法による峻別の法理が原則通り適用される。
それゆゑ、占領憲法の効力論争においても、後述するとほり、制定時において、その目的、主体、内容、手続、時期などに瑕疵があれば無効、瑕疵がなければ有効として評価されることになり、「取消しうべき改正行為」といふ概念は成り立たない。現に、この効力論争において「取消説」なるものは存在しないのである。
また、有効説の中には、追認、時効などの私法理論を援用するものがあり、これに対して、これらの普遍的法理を無効説の論拠及び反論として援用することも認められて然るべきものであるから、以下、特段に排除する根拠と理由がない限り、私法理論の普遍的法理を占領憲法の効力論に援用するものとする。
ともあれ、この「無効」とは、無効であることを確定させるための新たな立法行為(占領憲法無効化決議)をしなければならないものではない。法律的、政治的、社会的には無効であることを「確認」する決議(無効宣言決議)をすることは望ましいものの、それをしなければ「無効」が確定しないものでもない。また、占領憲法は無効であるから、占領憲法第96条の「改正条項」の適用はなく、過半数原則による通常の国会決議で充分であることになる。
破棄
次に、「破棄」とは、一旦成立し、しかもその効力要件(有効要件)を満たしてゐるので「無効」ではなく、あくまでも「有効」ではあつたが、当初からその立法行為(占領憲法)自体に内容的な欠陥や瑕疵があつて、その法をそのまま容認して継続させることができない場合(始源的事情の場合)、あるいは、その施行後に、立法行為時(占領憲法制定時)に存在した社会環境や政治環境などに変化が生まれ、立法行為(占領憲法)をその後も継続して施行しえない事情が生じた場合(後発的事情の場合)において、その立法行為(占領憲法)を将来に向かつてその効力を消滅させることである。つまり、始源的事情の場合であつても、その瑕疵の程度が「無効」とするまでに至らないし、また、後発的事情の場合であつても、その事情の変更によつて当該立法行為(占領憲法)が遡つて無効となることまでを意味するものではない。しかし、「無効」の場合と異なり、「破棄」は、そのための新たな立法行為(占領憲法破棄決議)が必要となる。そして、「破棄」されるまでは「有効」であるから、これを破棄するといふのは占領憲法の全面的かつ消極的な「改正」(削除改正)であつて占領憲法第96条の改正手続によらなければならない。さらに、破棄した結果、帝國憲法に復原するのか、新たな成文憲法を制定するのか、あるいは成文憲法を制定しない(不文憲法)とするのかといふ点については、破棄決議(立法行為)において確定されなければならないことになる。
このやうに、「破棄」とは、私法の領域でいふ「取消」と似たところがある。しかし、この「破棄」の用語は、法律用語として一義的な厳密さはなく、占領憲法が「無効」であるから、これを形式上も排除する趣旨で「破棄」するといふ用語例もありうるから、これは法律用語といふよりも日常用語ないしは政治用語であつて、厳格な定義を求められる「効力論」の領域にこの不明確な概念である「破棄」の概念を持ち込むことは妥当ではない。
失効
さらに、これに類似したものとして「失効」がある。これは、一旦成立し、しかもその効力要件(有効要件)を満たしてゐるので「無効」ではなく、あくまでも「有効」ではあつたが、その施行後に、立法行為時(占領憲法制定時)に存在した社会環境や政治環境などに変化が生まれ、立法行為(占領憲法)をその後も継続して施行しえない事由が発生して、その立法行為(占領憲法)を将来に向かつて(あるいは制定時に遡つて)その効力が消滅することが確定することである。この「失効」には、改めて「失効」のための立法行為(占領憲法失効決議)は不要である。これは、「無効」の場合と同様であり、「破棄」の場合と異なる。
そして、この「失効」は、私法の領域でいふ「解除条件付法律行為」と似てゐる。つまり、これは、ある条件が成就すれば、それまで効力のあつた法律行為が自動的に消滅する場合であつて、この条件のことを「解除条件」といふ。たとへば、落第したら奨学金の給付を取りやめるといふやうに、法律行為の効力の消滅を将来の不確実な事実にかからしめることを条件(解除条件)とする契約のやうな場合であり、もし、落第すれば、改めて解除などの意思表示をすることなく当然に消滅するのである。
また、私法の領域において、この解除条件成就による「失効」と類似したものとして、「事情変更の原則」による「失効」がある。これは、当事者が予期しえず、当事者が認識してゐた信頼関係を破綻させるやうな著しい事情の変更が事後に発生した場合には、その契約をその事情の変更の様相に対応させて改訂させ、あるいは契約を存続できない程度の事情が発生したのであればこれを消滅(解除、失効)させるといふ法理である。
これに関連する学説として、占領憲法無効説の一種とされてゐる占領憲法失効説がある。この失効説は、我が国が独立を回復したこと(占領終了)を解除条件とし、あるいは、その背景には独立の回復を以て社会環境や政治環境の変更があつたとして、その時点において占領憲法は「失効」したする見解であり、憲法としては無効であるが、占領憲法といふ名の占領目的の「管理基本法」としては独立回復(占領終了)までは有効であるとする。
しかし、占領憲法は、最高法規性を謳ひ(第97条)、憲法尊重擁護義務(第99条)を規定することからしても永続性を予定してをり、我が国が独立するまでの時限立法の趣旨を含んではゐない。
また、ポツダム宣言第7項には、「右の如き新秩序が建設せられ、且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至る迄は、聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。」とあり、わが国の独立回復(占領終了)は、ポツダム宣言による「保障占領」の目的達成後に実現されることが予定されてゐた。それゆゑ、独立回復(占領終了)は当初から予期されたことであつて、その後の独立の回復は予期しえない事情の変更ではない。
また、帝國憲法の改正として成立したとする占領憲法が何ゆゑに「占領管理法」といふ「法律」なのか。憲法改正としては無効であるのに、その下位法規である「法律」として有効であるとする根拠は何か。この管理基本法が独立回復(占領終了)を解除条件とする根拠はどこにあるのか。だれがそれを解除条件として決定(合意)したのか。この「管理基本法」といふ命名が、占領憲法を揶揄するためのものであれば単なる感情論であつて法律論ではない。このやうな点が解明されてゐないために、この失効説(旧無効説)は説得力を欠いてゐると云はざるをえないのである。
廃止と改正
さて、「廃止」と「改正」とは、立法行為(占領憲法制定)を「有効」とした上で、事後にそれを消滅させ(廃止)、あるいは変更(改正)する立法行為である。これは、いづれも占領憲法を有効とすることを前提とする点において共通する。条項的な変化としては、前者は全部削除、後者は一部削除と一部追加である。
また、「廃止」と「改正」は、その立法行為を行ふことの理由があることが普通であるが、その理由は何であつてもよい。内心は、押しつけ憲法であるといふ愚痴であつてもよいし、気に入らないからといふ気まぐれでもよいし、表向きは、時代に対応できないといふ現実論であつてもよく、特に理由は限定されてゐない。否、理論的には何らの理由も要らないのである。
そして、この「廃止」とは占領憲法の全否定であり、この方向と対極にある理念が占領憲法の「護憲論」である。その護憲論には、占領体制を占領憲法のまま完全に維持するとの「護憲論」と、占領憲法を修正しつつ、あくまでも占領体制の基本を維持するとの「改憲論」があることは既に述べたとほりである。
ただし、「廃止」した場合、帝國憲法に復原するのか、新たな成文憲法を制定するのか、あるいは成文憲法を制定しない(不文憲法)とするのかといふ点について、「廃止」の際に確定しなければならないことは「破棄」の場合と同じである。
追認
これは、「破棄」のところで述べたとほり、私法の領域でいふ「取消」の対極にある概念である。つまり、GHQの強迫により国家の自由意思を抑圧してなされた立法行為(占領憲法の制定)に瑕疵があり、「不確定的に有効」と評価されるものについて、それを将来に向かつて「確定的に有効」であることを承認する行為のことである。つまり、二度と取消をすることができないといふ意味では「取消権の放棄」である。
また、前述したとほり、その瑕疵の程度がさらに著しいときは、「取消しうべき行為」ではなく「無効」であるが、この場合にも「追認」ができるとされてゐる。つまり、「無効行為の追認」である。ただし、「取消しうべき行為の追認」の場合は、行為時(立法時)に遡つて確定的に有効となるのに対し、「無効行為の追認」の場合は、追認時から有効となつて遡及効がないといふ違ひはある。
占領憲法の効力論において、有効説の一種にこの追認を契機とする見解(追認有効説)がある。また、この変形として、民法第125条の法定追認の規定を借用し、追認の意思表示がなされなくとも、追認をなしうる時以後に、占領憲法が有効に存在してゐることを前提とし、占領憲法を踏まへた更なる立法行為や行政行為などの国家の行為がなされたときは、追認したものと看做すといふ見解(法定追認有効説)もある。
しかし、「無効行為の追認」については法定追認の制度自体がないので、法定追認説では、取消うべき追認の場合に限定されることになると思はれるが、追認説では、「取消うべき行為の追認」とするのか「無効行為の追認」とするのかについて明確ではない。
いづれにしても、これらの見解の骨子としては、占領憲法が憲法として無効であつても、将来に向かつて憲法としての適格性があるとして追認すれば、以後は憲法として有効となるとする論理であり、これについては、前章でその批判の概要を述べたが、これらの見解とこれに類似する言説の矛盾についてさらに敷衍する。
この追認有効説の変形は多く、60年も占領憲法が施行されてきたから、仮に無効であつても、その後に占領憲法に基づく法律が制定されてきたといふ「既成事実」が形成され、その事実を以て有効の根拠とする見解(既定事実有効説)、世論調査などからして占領憲法が国民の意識の中に国民の憲法として「定着」したことを有効の根拠とする見解(定着有効説)、さらには、前章で述べた「時効の國體」を逆手にとつた烏滸の至りともいふべき「似非時効」を根拠とする見解(時効有効説)などがある。
これらの見解は、おそらく、占領憲法は始源的(制定時)には瑕疵(無効を含む)はあつたが、後発的(事後的)には確定的に有効となつたとするものであつて、その意味では「後発的有効説」であつて、ポツダム宣言の受諾を以て革命と評価しそれに有効性の根拠を求める見解(革命有効説)、「承詔必謹論」により先帝陛下の「公布」を有効の根拠とする見解(承詔必謹有効説)などの「始源的有効説」とは異なるものの、これら「後発的有効説」に共通するものは、その裏付けとして、イェリネックの「事実の規範力」の理論を援用する点にある。
しかし、「事実の規範力」とは、法が守備範囲としてゐなかつた領域において、当初から違法性の意識がなく形成された事実たる慣習が法たる慣習(慣習法)となる成立過程の説明には適しても、それ以外の異質な事象と領域について適用させることは甚だ無理があり単なる虚構にすぎない。前述したとほり、法の「効力」の要素としての法としての「妥当性」と「実効性」の二つの要素において、そもそも「違法」と評価された実力が反復継続してきたとする「事実」は、仮に、事実的要素としての「実効性」を満たしたとしても、価値的要素としての「妥当性」を満たすものではなく、その「効力」としては常に無効である。違法な実力の行使による事実の反復継続に法創造の原動力を認めることは、事実と規範、存在と当為を混同し、「暴力は正義なり」を認めることとなり、社会全体の規範意識を消失させて法秩序は破壊される。
古今東西を問はず古来から殺人、売春、賄賂、政府権力による人権弾圧などの行為は継続反復されて存在してきたし、不幸なことに将来も反復継続するであらう。しかし、この反復継続する「事実」を以て法創造の規範力を認め、殺人、売春、賄賂、政府権力による人権弾圧などを正当であると許容する「法」となつたとして合法化とすることは法の自己否定となる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」といふ諧謔があるが、これは「怖い」といふ「違法性の意識」を群集心理で鈍磨させようとする「不道徳」を説くものであつて、「赤信号、みんなで渡れば青(信号)になる。」といふ「違法性の消滅」を意味するものではない。ところが、有効性の説く「事実の規範力」の援用は、その本来の守備範囲を逸脱して「違法性の消滅」を説き、法の破壊につながる牽強附会の禁じ手を用ゐたことになる。これは法律学の自殺行為であり、これを主張するものは法律学者としての資質を疑はざるを得ない。
ともあれ、後発的有効説のうち、追認有効説及び法定追認有効説以外の見解は、時間の経過などの「事実」を主な根拠とするのに対し、追認有効説及び法定追認有効説は、追認又はこれに準ずるなんらかの国家行為ないしは立法行為の存在を根拠とする点に相違があるので、これについて以下に言及する。
そもそも、追認といふためには、帝國憲法の改正手続を行つた「帝國議会」その他の国家機関が、その改正手続と同様の手続と要件に基づいてなされるものであつて、少なくとも帝國議会などが機能停止してゐる状況下では、帝國憲法下の帝國議会とはその存在根拠を異にする占領憲法下の「国会」で事後承認したとしても、これを以て追認とすることはできない。
平易に言へば、泥棒の被害者がその泥棒が盗んだ品物を返還しなくてもよいとして事後に宥恕することによつて泥棒はその品物を正式に自己の所有とすることができるが、被害者は何も言はないのに泥棒自身が「これは俺の物だ」と勝手に宣言したとしても、決してがその品物は泥棒の所有とはならないことは誰でも解る。この「泥棒」が占領憲法下の「国会」であり、その「被害者」が帝國憲法下の「帝國議会」である。この泥棒の国会については、占領憲法第41条により「国会は、国権の最高機関」であるとして自画自賛するものの、未だに気恥ずかしいのか、泥棒の国会において「占領憲法は有効である」との有効確認決議(追認決議)をしたことすらないのである。「追認」は、あくまでも追認の意思が客観的にも表明されることが要件であるから、現在に至るも「泥棒の宣言」すらなされてをらず、追認有効説が有効の根拠とする「追認」それ自体が存在しないので、この説はそもそも成り立ちえないのである。
また、追認がなされるためには、原状回復がなされた上でなければならないことは既に別稿『原状回復論』で述べたとほりであつて、北朝鮮に拉致された犯罪被害者が無条件かつ無制約の帰国の実現と強迫観念からの解放による自由意思の保障がなされた環境が与へられるといふ「原状回復」が実現しない限り、仮に、再び北朝鮮で生活するといふ選択をさせてはならないのと同様、独立後も日米安全保障条約といふ方式による占領政策の継続し、かつ、戦勝国による国際連合体制が継続してゐる現在の情況では、未だに原状回復が果たされたといふことはできない。それゆゑ、「追認ハ取消ノ原因タル情況ノ止ミタル後之ヲ為スニ非サレハ其効ナシ」(民法第124条第1項)とあるやうに、その時期において、未だ追認をなしえないのである。
そして、このことは、仮に、追認がないとしても追認がなされたと看做すべき行為があつたとしても、民法第125条の法定追認を主張する法定追認有効説についても同様である。つまり、「追認ヲ為スコトヲ得ル時」に至つてゐないからである。
もし、追認をなしうるとすれば、その時期は、現在の国連体制と日米安保体制からなる占領継続体制が解消した後のことである。具体的には、日米安保条約が対等双務条約と変更されるか、あるいは解消されるかのいづれかとなり、国連が解体され、あるいは我が国が国連を脱退して自立し、または、戦勝国のみで構成する非民主的な常任理事国制度と敵国条項が廃止され、少なくとも戦勝国ではない中共や共和制ロシア(ソ連崩壊後の新国家)が常任理事国から排除され、北方領土が返還されて分断国家状態が終了してからのことである。
ところで、前述したとほり、追認有効説は、占領憲法を「取消しうべき行為」であるとして追認するのか、あるいは「無効行為」であるとして追認するのかが定かではない。しかし、帝國憲法の改正行為が「取消しうべき行為」であるとするのは、そもそもその根拠に乏しいので、やはり「無効行為」として追認を想定してゐるのであらう。また、法定追認有効説は、おそらく「無効行為の法定追認」を主張するものと思はれるが、無効行為の追認にはそもそも法定追認の規定はなく、類推適用もされない。この法定追認の制度は、取消しうべき行為といふ不確定な法律状態を速やかに解消するために、たとへ追認の意思表示がないとしても、これと同視できる行為や表示があれば、それを追認と看做すことによつて利益衡量を実現するための規定であるから、初めから無効であるものを特段の意思表示もなしに殊更に有効とすることは私的自治の原則に違反し、当事者にとつては不意打ちとなるからである。
このやうに、無効行為の追認を想定して構築された追認有効説や法定追認有効説は、その出発点において論理破綻を来してゐることになる。
さらに、本質的な問題として、「無効行為の追認」が絶対に不可能であることの理由がある。つまり、民法第90条によれば、「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」と規定し、いはゆる公序良俗違反の行為は絶対無効であるとするのであつて、このことは占領憲法の効力論においても妥当する。公序良俗違反の典型例として、人身売買の例で説明すれば、これは人権の否定であり違憲の行為であるから許されないのであつて、人身売買の行為は無効であるといふことである。そして、この無効といふのは絶対無効であつて、事後に追認することも許されない。もし、これを許すのであれば、結果的には公序良俗違反を肯定することとなつて法の趣旨に反するからである。それゆゑ、追認自体が無効であり、追認しても人身売買は有効とならない。これが絶対無効といふ意味である。
このやうに、憲法の条項に違反する行為が絶対無効であるのであれば、憲法自体を否定した上で憲法の条項にも違反する行為は、さらに違法性が著しいので絶対無効であることは当然のことである。占領憲法の制定は、帝國憲法を否定し、その条項(第75条)にも違反する行為であるから、占領憲法の規範定立行為(制定行為)は絶対無効であつて、帝國憲法の改正行為として追認することも絶対にできないのである。
従つて、追認ないしは追認と同視しうるとする「法律行為」を以て有効とすることはできないのであるから、ましてや、追認有効説及び法定追認有効説以外の後発的有効説のやうに、「既成事実」とか「定着」、ないしは時間の経過といふ「事実」を以て有効化しうる根拠はない。
似非「時効」の主張は重ねて云ふに及ばず、また、「既成事実」の正体は、違法な実力(暴力)の連鎖的継続状態であつて、これが法創造の原動力たりえないことは前述したが、それに加へて、国民の意識が定着したとする点については、むしろ次のとほり、逆に「不定着」の事実が継続してゐることを指摘したい。
すなはち、占領憲法の要諦である第9条が実効性を保つてゐた期間は、施行された昭和22年5月3日から昭和25年7月8日までの僅か3年余に過ぎないことに留意すべきである。つまり、昭和25年7月8日は、マッカーサーが、朝鮮戦争を契機として警察予備隊7500人の創設と海上保安庁8000人増員を許可したときであり、このときから再軍備が実現し第9条の実効性は否定された。そして、同年10月には、米軍の上陸作戦を支援するため、海上保安庁の掃海隊が朝鮮半島沖の機雷処分に投入された。これは、戦闘地域での日米作戦の合意に基づくものであつて、同月には海上保安庁の掃海艇一隻が機雷に触れて沈没し、18人が重軽傷、1人が死亡(戦死)した。そして、湾岸戦争、カンポジアPKO、イラク戦争などを経て、完全に第9条は死文化し、再軍備が国際的に認知された。イラクのサマーワが戦闘地域か否かといふ議論は、過去の歴史的事実を知らない者の戯言であり、空虚で欺瞞に満ちたものに過ぎないのである。
それゆゑ、占領憲法第9条は、再軍備の実現によつて憲法としての実効性を既に喪失してゐると評価される反面、この再軍備の実現は、逆に帝國憲法第11条の実効性が復活して現在も存続してゐると評価される。また、第9条以外の占領憲法の各条項について実効性があるとされる事象についても、それは同時に、概ねこれに対応する帝國憲法の各条項によつても説明できるものであつて、帝國憲法の実効性が継続してゐることの証明となるのであつて、未だに帝國憲法はその実効性を喪失してゐないことになる。
つまり、帝國憲法は法としての妥当性と実効性が存在し、占領憲法にはそれが備はつてゐないので、憲法としての効力を有してゐるのは帝國憲法しかありえないのである。
附言するに、そもそも定着有効説が、国民の意識として「定着」したといふ点も単なる虚構にすぎない。この「定着」については世論調査などに準拠するのであるが、そもそも世論調査なるものは、その目的、項目、対象、範囲などにおいて恣意的な要素が入りやすく、世論誘導の手段として用ゐられてゐることは公知の事実である。にもかかはらず、この世論調査等を根拠として国民の意識なるものを推定することは統計学的な正確さを備へてゐない危ふい言説である。
さらに、この定着有効説は、重大な点を欠落させてゐる。占領憲法制定時から現在に至るまでの「憲法教育」の実態についてである。義務教育に用ゐられる教科書には、占領憲法の出生の秘密を記載してゐないし、無効説の存在とその内容や論拠に至つては全く記載されてゐない。検定基準自体にもその項目がない。このやうな教育実態は、義務教育のみに限らず、その他の公教育や社会教育においても同様であつて、現在もなほその状況は継続してゐる。このことは、無効説を排除する思想統制が行はれ、占領憲法が「有効」であるとする洗脳教育であつて、その教育を受けた者が成人して国家の意思形成に参加したとしても、その意思形成は、詐欺、強迫に基づくものであるから、この呪縛と強制から解放されない限り、「不当威圧」undue influenceの法理は適用され続ける。洗脳された者の多数決なるものは、「大衆の喝采」を擬制した全体主義国家の行ふ手法であつて、これを以て「定着」といふことは断じてできないのである。
それゆゑ、占領憲法の制定経過事実が記載され、占領憲法の効力論争の存在とその内容について両論併記された教科書による教育(真の憲法教育)がなされて教育の正常化が実現し、このことが遍く周知された状況になつた後でなければ、定着有効説はその論拠の前提を欠くことになるのである。
効力論争の鳥瞰
以上の考察で明らかとなつたのは、占領憲法の効力論争が多面的、多元的なものであり、その争点についても、占領憲法の、①目的、②主体、③内容、④手続(手段、方法)、⑤時期などの各事項について様々な主張がなされてきたことが解る。
占領憲法は、無効説からすれば、①日本弱体化、國體破壊といふGHQの目的によるものであり、動機の不法、不正の目的によるものであること、②制定の主体は、実質的にはGHQであり、我が国の自主性は奪はれてゐたこと、③内容においても、國體の変更を伴ふものであつて、改正の限界を超えてゐること、④手続(手段、方法)においても、著しく審議不十分であつたこと、⑤時期においても、帝國憲法第75条に違反し、ヘーグ条約にも違反してゐたことを理由に無効であると主張するものであるが、これに対し有効説は、必ずしもこれに一対一に対応して反論してゐない。ただし、ヘーグ条約違反であるか否かについては論争がされてゐるが、最も重要な帝國憲法第75条(類推)違反については全く反論がない。
また、このこととの関連で、いつの時点における効力の有無を論ずるのかといふ点(効力時点)についても、無効説は、憲法改正に内容的な限界があるとする見解(限界説)に立ち、概ね「制定時」の効力を問題とし始源的に無効であるとするのに対し、有効説は、憲法改正に内容的な限界がないとする見解(無限界説)と革命有効説を除いて、概ね「現在時」の効力を問題とし後発的に有効であるとする傾向にある。
そして、これに加へて争点としなければならないのは、失効説の説明でも触れたが、次々章(条約考)で詳述するとほり、占領憲法の法的効力について、占領憲法の名称が「憲法」であるとしても、はたしてこれが真の「憲法」なのか、それとも「法律」又は「条約」その他の法令といふべきなのか、といふ法の「領域」の問題が横たはつてゐる。
これに関する私見は、結論を言へば、占領憲法は「条約」、しかも「憲法的条約」の限度でその効力を認めなければならないとする見解に立つてゐる。その意味からすれば、占領憲法は「憲法」の領域では「無効」であるが、「条約」の領域では「有効」とすることとなり、無効説と云つても、正確には「相対的無効説」と名付けるべきかも知れない。これに対し、従来までの無効説(旧無効説)も有効説も、失効説を除き、法の領域としては「憲法」だけに限定し、他の領域についての言及はない。失効説を除く旧無効説は、おそらく一切の法の領域において無効とするものであつて、その意味では「絶対的無効説」と呼称すべきかも知れない。ただし、失効説は、制定時は憲法としては無効で管理基本法としては有効とする点において相対的無効説であり、これが憲法的条約であるとする私見と共通するところがあるが、現時点(占領終了)では失効してゐるとすることからして、現在時評価からすればこれも絶対的無効説であり、現在時においても憲法的条約として効力を有するとする私見とは異なる。よつて、失効説を含めて従来までの無効説を「旧無効説」とし、私見を「新無効説」とした所以はここにある。
有効説の潮流
憲法改正に限界はあるか。これについては、戦前戦後を通じて、これに限界があるとするのが通説である。なぜならば、限界があるとする根源には、「國體論」があるからであつて、限界を認めない無限界説は、実は「主権論」であり、「國體論」を否定する見解である。無限界であるから、國體の破壊も許されるとするのであつて、仮に、主権論ではなくても、少なくとも反國體論である。このことを自覚的に議論されたことは過去に一度もなかつた。それどころか、未だにこの無限界説を放棄せずして國體護持を叫び、しかも、國體と政体とを分離して、國體規定とされる帝國憲法第1条ないし第4条前段と政体の基本原則規定とされる同第4条後段の改正を否定して改正限界があるとする自家撞着の言説も残存するが、これらは既に学問的には破綻を来たして淘汰されてゐる。
従つて、現在では、その理由は様々であるとしても限界説が定説となつてゐるが、占領憲法時には学説的な異変が起こつた。それは、限界説に立つた革命有効説の登場である。当時は多くの賛同者を得たものであつて、いまではこれも学説的に淘汰されたのであるが、この革命有効説が制定時において政治的に占領憲法の制定を推進させた原動力となつたもので、その及ぼした影響は極めて大きいものがある。
この革命有効説が制定時に賛同者を増やしたのは、当時の国際情勢、社会情勢、政治情勢などの背景があると思はれるが、学説にも影響を及ぼした理由は、先に述べたとほり、この革命有効説が主流であつた限界説から生まれた点にある。つまり、革命有効説は、帝國憲法の改正としては「絶対無効」であるが、「革命憲法」としては「有効」であるとする点にある。それゆゑ、帝國憲法の改正法としては無効であるとする点においては、無効説の範疇に入る。これが限界説の学者の心を揺るがし、形式的には変節せずに実質的には変節を果たすといふ学者の保身に寄与した。
つまるところ、形式的には「限界説」に立ちつつ、「革命」といふものを媒介させれば、実質的には「無限界説」へと変節するための方便とトリックを編み出したのがこの革命有効説である。
それは、要約すれば次のとほりの見解であつた。ポツダム宣言の受諾により帝國憲法の根本規範に変更が生じ、「天皇制の根拠が神権主義から国民主権主義に」変化して「革命」が起こつたとするのである。
しかし、ポツダム宣言の受諾は、帝國憲法第13条の講和大権に基づくものであつて、明らかに帝國憲法による統治行為であつて、この時点で根本規範の変更はありえない。終戦の詔書にも「茲ニ國體ヲ護持シテ」とあり、ポツダム宣言においても根本規範の変更を求めてゐなかつたこと、さらに革命の概念についても矛盾があることなどは既に詳述したとほりである。
そもそも、「神権主義」といふ概念は不明確であり、仮にこれが「國體論」を意味するものとしても、それが何ゆゑに「主権論」へと変化するのか。しかも、「天皇主権」を経由することなく一足飛びに「国民主権」なのかといふ点において論理の飛躍がある。
革命有効説は、「根本規範の変更を規定する憲法が有効たりうるのは、『革命』によつてである。」とする命題を示したが、これを踏まへて、「革命」とは何か、との問ひ対し、それは「根本規範の変更をもたらすもの」と答へ、ならば「根本規範の変更をもたらすもの」とは何か、との問ひに対しても、それは「革命」と答へるのである。これは循環論法であつて、論理破綻の典型である。
いづれにせよ、根本規範の変更である「革命」がポツダム宣言の受諾といふ講和大権の行使によつてもたらされたと認めるのであれば、それは帝國憲法下の合法的な行為でなければ保護されない。そもそも「憲法」と「革命」とは対立概念として用ゐられるのであつて、これを「革命」と呼称するかは用語例の問題であるとしても、この「革命」が有効であるとされるためには、これが帝國憲法体制下の法秩序において合法的(合憲的)な行為でなければならないことは当然のことである。通常の違憲行為であつても無効であるとされるにもかかはらず、それ以上の違憲行為である國體変更を目的としたこの「革命」が有効であるはずはないのである。
帝國憲法の上諭に「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある点について、これを「天皇の側からのクーデターの禁止宣言なり」とする天皇機関説からの見解(美濃部)があつた、と前述したが(クーデター考)、この「革命」なるものが体制内変革としてのクーデターに該当するとしたら、天皇大権を行使しうる天皇の側からのクーデターですら禁止されてゐるのであれば、GHQといふ外国勢力はいふに及ばず臣民の側からもクーデターも当然に禁止されるのである。
ところで、この革命有効説の変形として、占領憲法が制定されることを解除条件として主権が国民に移つたとする見解(ただし、これは解除条件ではなく停止条件と表現すべきであらう。)、占領から解放されることを停止条件として占領憲法が制定されたとする見解などがある。しかし、これらの条件付国家行為をなす時点において占領下にあり、誰が誰に対してこの条件付国家行為を行つた(合意した)のかについて全く説得力のない虚構の産物である。
ともあれ、革命有効説は、限界説に立つがゆゑに、占領憲法は帝國憲法の「改正」としては「無効」であることを前提に、これは改正ではなく「革命」であるとして「有効」になるとするのであるから、この「革命」が否定されれば、占領憲法は「無効」として確定することになる。そして、この「革命」は、現在においては完全に否定されたため、破綻した革命有効説は、占領憲法が無効であることを証明する学説となつたのである。
正当性説の登場
このやうに有効説である無限界説と革命有効説とは、その論理を破綻させて今日に至つてゐる。無限界説は死滅したが、革命有効説については、限界説と無限界説との対立、違憲と革命との相克から逃げ出して、その後、その土壌から新たな有効説(らしきもの)を出現させた。革命有効説の逃げ場所、それが正当性説である。
それは、憲法の名に値するものは、その出自や来歴、歴史や伝統によつて決定するものではなく、その内容と価値体系(国民主権主義、人権尊重主義、戦争放棄平和主義など)の優越性を意味する「正当性」によつて決定するといふ見解である。
しかし、ここでは、効力の要素である妥当性とは異なる「正当性」といふ概念を定立し、効力論に直接には言及しない。つまり、正当性即妥当性ではなく、正当性説即有効説ではないことを自覚するからであるが、占領憲法の効力論とは別個に(むしろこれを度外視して)占領憲法に正当化に成功すれば、これによつてあたかも占領憲法が有効であるがこどき印象を与へることができるからである。それゆゑ、これは法律学といふよりも法社会学の範疇における革命有効説の変形であり、有効説らしきものなのである。
確かに、カール・シュミットがいふやうに、憲法についても、「合法性」と「正統性」legitimacyの二つ観点を検討する必要があり、いままで述べてきたのは、主として占領憲法の合法性に関する有効説と無効説の議論であつた。他方、正統性の概念は、論者によりまちまちであるが、それが政治学、歴史学、文化論など広範な領域を守備範囲とするために多岐に分かれてゐるものの、少なくとも、その憲法が国家の歴史、伝統、文化などに合致し連続性を有しているか否かといふ要素を含むものであることには疑ひはなく、占領憲法が正統性を満たさないことは多言を要しないものである。なほ、ここでは、「正統性」と「正当性」とを音読で区別するために、前者を北畠親房の『神皇正統記』に倣つて「ショウトウセイ」と音読し、後者を「セイトウセイ」と音読して区別したい。
ともあれ、正当性説は、憲法の名に値するものは、その出自や来歴、歴史や伝統によつて決定するものではなく、その内容と価値体系の優越性を意味する「正当性」によつて決するとするのであるから、「正統性」とは別に「正当性」があるとする。否、むしろ、「正統性」がないことを前提として、それに代はる「正当性」があれば充分であるとするのである。
しかし、これは言葉の遊びにひとしい。ここでの「正当性」の概念は、本来は「正統性」の内容を検討するところから出発した議論であつたはずなのに、歴史、伝統、文化など、正統性の中核に位置する伝統性を全く排除し、単に内容だとか価値体系などの優劣を議論することにすり替へてゐるだけである。そもそもこのやうな内容と価値の優劣に関する判断は千差万別であつてなんら普遍性はない。正当性説の主張する価値判断に時代を超えた普遍性があるといふのであれば、その証明がなされなければ意味がない。しかも、これが普遍的なものであるといふのは、結局のところ、将来に向かつての時間的な永続性があることを前提とするものであつて、それならば、過去からの永続性を根拠とする歴史、伝統、文化などに依拠した正統性の主張を排斥することはできないはずである。
そして、なによりも、内容や価値体系の優劣によつて正当性を決定するといふこと自体に致命的な陥穽がある。それは、北朝鮮によるいはゆる拉致事件といふ国家犯罪などを題材として考察することで解るはずである。
たとへば、仮に、我が国において極貧の生活をし、仕事もなく社会的には全く活動の場が与へられなかつた人が拉致の被害者となつたとする。しかし、拉致された後には工作員指導教育などの任務が与へられて極めて富裕な生活待遇を受け、本人も拉致によつて我が国で生活する自由が損なはれたことの不満はあつたが、極貧生活からの解放とそれなりに仕事と社会的地位を与へられたことを事後になつて好意的に受け入れた。そして、いつしか、拉致されたことへの不満も薄らぎ、北朝鮮で一生暮らすことを決意したとしよう。この場合、正当性説と同じ論理によれば、それまでの経過はどうであれ拉致の前後における生活の内容と水準を比較すれば、拉致後の生活の内容の方が決定的に勝つてゐるので、我が国としても、これを北朝鮮の犯罪だと批判せずに、逆に、北朝鮮に感謝して被害者が拉致されたことを大いに祝福すべきであり、「拉致」には「正当性」が認められるといふことになる。また、もつと単純な例とすれば、親から虐待され、しかも貧しい家庭の子供を誘拐し、この子供に愛情をそそいで裕福に育てた誘拐犯についても同じことが云へる。この陥穽はどこにあるかといふと、それは、犯罪の成否と斟酌すべき情状とを混同したことにある。正当性説は、斟酌すべき情状があれば犯罪は成立しないといふ、本末転倒の見解なのであり、まさに「無理が通れば道理が引つ込む」といふ理論なのである。
やはり、このことからしても、別稿『原状回復論』の正しさが再認識されるとともに、正当性説の論理破綻が明らかとなるのであるが、正当性説からは、このやうな批判に対する反論を一切行はうとはしない。正当性説は、いまや革命有効説に代はり、有効説(側)の主流となつてゐる感がある。正当性説の企ては、占領憲法の効力論争を真摯に行へば無効説の勝利となるのは必至であるから、効力論争を沈静させて決着をつけさせないやうにすることにある。そのために、効力論争に全く参加せずにこれを黙殺することによつて無効説を封じ込め、あたかも占領憲法が有効であるかのやうな風潮を生み出すことに懸命である。そして、正当性説に立たない全ての憲法学者もこれに同調する。それはなぜか。それは、占領憲法の効力論争をすることは、占領憲法のコバンザメとしてその解釈で生計を立ててゐる憲法学者全体の利益に反するからである。これはまさに憲法学の自殺行為であつて、今や憲法学は、曲学阿世の処世術を駆使する法匪の道具となり果てた。
占領憲法の効力論争といふのは、純粋な法学論争であつて、「占領憲法が好きだから」とか「占領憲法が嫌いだから」といふやうな感情論や趣味の問題であつてはならない。「占領憲法は好きだけれども、占領憲法は無効なのでこれを否定する。」といふ、泣いて馬謖を斬るが如き態度こそが法学者たるものの矜恃でなければならない。その意味では、我が国に憲法学者は皆無にひとしい。
有効説が復活しうる唯一の論理的な選択肢としては、革命有効説が絶滅したと思はれた無限界説を抱き込んで、改正無限界による「合法的革命」として有効であると主張することである。これは荒々しい主権論同士の結合であり、新たなジャコバンの群れとなる。しかし、これは後出しのジャンケンであり、法匪のなす変節の極みである。
憲法は、法匪の専有物ではない。占領憲法の効力論争に怠惰であつた法匪には、憲法学全般においては専門性を持ち合はせてゐたとしても、占領憲法が無効であるとする論拠に反論するだけの知識を持ち合はせてゐない。素朴で健全な批判的精神があれば、必ず法匪の邪論を打ち破ることができるのである。
平成17年8月9日記ス